こんにちは。今日は水曜なのでプールデーであります。午前中は常滑の小学生たちがプールを使っているので利用できるのは13時から。
急に涼しくなったので動悸が出たりしていますが、体感といいますか、自分が暮らしている環境下では、エアコンをかけていた時の温度、湿度とほぼ同じなのが不思議です。気圧も数値で見れば1014ヘクトパスカルと平常運転に見えるのですが、体調はたしかに悪い。不思議なもんです。火星で木の葉が落ちた影響みたいに、縁遠いものから勝手に波動を受けてしまっているようなオカルティックな印象すらありますが、実際に具合が悪くなっちゃうんだもんなあ。
さて
今朝Googleニュースを見ていたら、どこかの写真家さんの有料ブログの無料パートが流れてきまして、ミラーレスも第四世代に入ったみたいなことを話題にされていたようでした。
その言説自体には異論も何もないのですが、そもそも最近のカメラにそこまでの関心を抱き続けるのが難しくないか? というのがわたくし個人の意見というか体感ですね。業界歴がながければ長いほど、そう大きな変化がないのでエキサイトしにくいような気がするんです。
カメラの話題を扱うのも仕事の一環になっていると、少なからずジャーナリストや評論家的な側面が求められるでしょうから、そういった話題を扱わざるを得ない部分もあるのかもしれませんが、ミラーレスはミラーレスなので、その中で細かくあれこれ変更してきてもマイナーアップデートにしか見えないもんなあ、という、カメラメーカーの人たちが見たら血の涙を流しそうな感想ですが、これはこれで純粋に消費者側の意見としてはよくあることなんじゃないかと思います。ぜんぶ一緒というと言い過ぎではあるものの、自分が「今カメラが必要だ!」とならない限り、興味を持ちにくい感じがします。各社の違いもなくなってきましたしね。
むしろ、AFや解像度など性能の部分はあれこれ時間と予算をかけないと上がらないと難しいのは想像がつくのですが、ハード的な使い心地の部分を今もってちまちま詰めているのは、「いや人間が使うのは最初から最後まで絶対に変わらんのに、なんで少しずつしか向上しないんだ?」と思ってしまったり。消費者というのは冷酷ですからね。B to Cの製造業はそれを前提に商売しないといけないのが辛いところです。
センサー側の性能もじわじわと向上していますが、基本的には解像度アップの話であって、高感度耐性はAI的に塗り絵がうまくなる以外での向上は、もうキワキワのところまで来ているような印象がありますし、レンズも結局は性能向上=明るい=でかい重い高い、になってしまうので、80mm F5.6みたいな解放が暗いのが前提の時代にF2.8のPlanarが輝かしく登場したような、つまりその時点で理論的には可能ながら技術的に不可能だったものが、人類の努力により実現された! みたいな華々しさは恐らくもうないんですよね。敵は物理限界になってきているようですし、その歩みが技術的には大きな一歩だとしても我々の肉眼の性能は大した違いに見えませんから、見て「すごい!」と思えるようなものというより、何かしら測定機で測った時に「すごい数値が出ている!」と感心するみたいな間接的なものになってきています。
写真を等倍で見て解像を喜ぶ、というのも、大抵はそうした二次的、間接的な喜びになってしまってきており、自宅で高解像度の大きなモニターを使っていれば拡大せずとも「やっぱ高解像度機はチリチリ写って気持ちが良いぜ」というのも実感できますが、私の環境でいっても事務所のノートPCでは2000万画素も5000万画素も全然違いが分かりません。そこではトリミング耐性のみがメリットということになってしまいます。あとは印刷ですね。

こういう後で拡大して楽しいタイプの楽しみ方も間違いなくあるのですが。
技術の進歩自体は人類のなし得た偉業を知り、また民生レベルでも多少のお金を積めば利用できる生産技術及び能力の高さ、ロジや販売網およびそれを支える人的資源の素晴らしさを知ることが出来るので決してネガティブなものではないのですが、人間が自らの肉の知覚でもって「あ、すごい」と認識できる領域を越えてしまっています。
これは例えるなら、色鉛筆の色数が増えているのと同じことなのだろうな、と最近思います。
色鉛筆
色鉛筆の色数が12色を越えて100、1000と増えていくと何が起きるかというと、グラデーションの隙間を埋めたい人や、精妙な色表現をしたい人にとっては選択肢が増え、喜ばしいだろうと思います。
しかし代わりに1000色の色鉛筆はそれ自体の体積と重量で使う者の身動きをとり辛くし、さらには描く作業に対して選ぶ手間、労力がネガティブな要素としてのしかかり、下手をすると描く喜びを削り取っていく可能性があります。12色の色鉛筆であれば、どの色を使うか迷うことはほとんどないでしょう。
この例えで行くと、機材マウンティング遊びも「うちの色鉛筆セットは数が多い」「うちの色鉛筆セットは色鉛筆メーカーがより高い顔料を使っている」みたいな競争でしかなく、「いや描けよお前」という話にしかなりませんし、その違いにそもそも「色鉛筆が、ある」という、ゼロから1に移行したときほどの感動は絶対にありません。
色鉛筆にとって大切なのは、まず「手元にあること」すなわち色を使って絵を描くことが出来る機会が手軽に得られることであり、その色数の多さは優先順位の筆頭には来ないのだろうと思います。
もちろんお題によっては、色鉛筆の数が多い方が達成しやすい条件設定もあり得るとは思いますが、その条件は「色鉛筆を使って多彩な色を表現しよう」みたいにいびつなものになるでしょうから、そもそも相手しなくても良いんじゃないのという感じがしてきます。
写る喜び
何が言いたいかというと、写真にとってカメラは「写ること」すなわち自分が目にしている三次元を二次元化して固定してくれるツールが手元にあることがまず何より大事であり、それ以外の条件はついででしかないよなあ、というのを忘れないようにしたいなと思うんですね。
特殊な条件で区切るのであれば、より特殊な機材の方が有利になる場は多々ありますが、好きで撮っている人ほど、その条件設定をいつでも自由に変更してしまえます。それこそが一番美味しいところなんじゃないのかな、と思います。
高級機材による美麗な描写も一度は体験しておいた方が良いですが、それ自体は色鉛筆の数が増えたようなもの、と思っておいた方が、高級機材路線を進むにしても楽しめるかも。
というわけで私は自分が楽しめるギリギリのラインを探ろうと思います。
それではまた。