今日のRX100
正確にはもう昨日の出来事になってしまいました(ただいま午前3時ちょい前)が、今日の! RX100です。
ロケハンついでに池袋あたりをうろうろしておったんです。なかなか歩きました。
明日は打ち合わせ前にちょっとうろうろする時間があるもんですから、都内のどこかでスナッピングしていると思います。どこに行こうかしら。
1週間ほど鬱屈していたのがまだ抜けず、「これを撮ったところでどうなるっていうんだ……」とか、カメラ屋さんで写真雑誌を見て「この人らの写真はネームバリュー以外に何を楽しんだら良いんだ……」ってウルトラネガティブモードのままなんですが、ほどよいバランスを見つけてやっていくしかありませんね。
というか、これまではカメラを操作する楽しみだとか、写真を撮りこなす感じの楽しみで来ていたもんですから、方針を転換していかないといけません。どういう事か詳細に説明するのは感覚の問題なので難しいんですけどね。
男子はほら、機械から入るでしょ。女子は雰囲気を撮る、世界を作るところから入ります。
男子のおもちゃがガキーン! 合体ー! みたいな超合金ロボだったりするのに対して、女子はシルバニアファミリーとかリカちゃんファミリーみたいに世界を構築するタイプの遊びをします。そういう違いが写真にもモロに出るんですよね。
私の場合、写真の撮り方を教えますよーつってカメラっていう機械の事とか、ライティングの原理、考え方を論理的に教えるのは非常に得意なんです。なんでかっていうと自分が完全に理論で撮るタイプだからなんですな。
ところが、その理論とスキルを使って何を撮るの? っていう話になると、その先は作家性の話になってくるのでまったく違う領域なんです。下手すると売れてる写真作家で私より知識や機械を扱うスキルが低い人もいる可能性があります。
でも作家はそこで食ってるんじゃないんですよね。作家性そのもので食っているわけです。写真はその作家性の表出でありますよ。
それに気づいた時に愕然としましてね。だってあっちがやっている「写真」とこっちがやっている「写真」が、実は全然違うものを指していただなんて、誰も教えてくれないですから。
ただ日本の場合、写真芸術の部分とコマーシャル的な不特定多数を喜ばせる為の写真をあえて混同しているフシが雑誌なんかを見ていると感じられるわけです。欧米諸国では最初っからコマーシャルはコマーシャル! アートはアート! ってはっきり分かれるそうでして、コマーシャルは徹底して訴求力を求められますな。アートの場合はアートのコンテクストを理解した上で、アート市場に向けたプロモーションを行い、アート写真ファン、コレクターにどう売るか、そして価値を高めるかっていうのが勝負です。
アート側の筈の写真作家が雑誌でヌードを撮ります、つって女の子の裸を撮っていて、いやこれアプローチ的にはコマーシャルっぽいんだけど、これアートなの? みたいな。はっきり分けない日本の市場がそういう人たちには合っているので現在の形が成立しているんでしょうけど、私は非常に居心地が悪いんですな。
その居心地の悪さが積もり積もって、ああ俺は一体何を撮れば良いんだろうという形で噴出した、と。そういう鬱屈でございました。
理由がわかったからといって別に解決する問題ではないのですが、しばらく考えてみて「あー、とにかく合ってないんだから仕方ないわ」というのが分かっただけでも良いのかなぁなんて思います。
考えてみると私、昔ギタリストだったんですけど、私が弾くギター、言い換えると私がギターを弾く上で重要視していた部分って、日本の音楽市場では全く必要とされない部分でありまして、そういうミスマッチで非常に苦しんだ経験があります。写真をやってもそういう壁にぶつかるのかよ、とも思うんですが、こりゃもう生まれ持った性分だから仕方がないんですよね。
他の人がそういうチャンネルを最初から持っていないところに自分の強みがあるっていうのは、なかなか勝負をハードに感じさせますが、とりあえず出来る事を、少なくとも自分だけでも楽しみながらこつこつやっていくのが一番かなと思います。
ところで今日の緑もじゃもじゃの写真、あれ民家なんですけど、クトゥルフみたいですよね。