「ポーズ指示」という言葉に違和感

 おはようございます。今日は寒いのでのんびり目に家を出たら、近所の馴染み猫も同じ考えだったようで玄関先で鉢合わせしました。レンズテスト、ボデーテストも兼ねて撮りまくり、その後は花を撮りつつ出勤です。今日も電力の供給は厳しそうですが、どうなんでしょうね。

さて

 今朝、Googleニュースを見ておりましたら、写真関連のブログがつらつらっと流れてきまして、海外のブライダル写真の人がポーズ指示について「どうやったら自然なポージングにつながるような指示が出せるか?」みたいな内容。なるほど欧米のブライダル&ファミリーフォトグラファーはやっぱりドキュメンタリー寄りに見せたいもんだから、如何に自然でリラックスしているように見えるか勝負なんだな、と思ったのですが、今朝は内容よりも使われている言葉に目が行きました。

posing prompts

 ポージング指示に該当する言葉として「posing prompts」という言葉が使われておったんです。ポージングプロンプツ。

 promptというのは、政治家が会見する時に見る透明のカンペ、あれがプロンプターだったりと、意味の一つに「セリフを促す」という意味が入っています。つまり「指示」のように強意な感じがなく、横からそっと促すイメージのようですね。こうしてみたら? みたいな。

https://ejje.weblio.jp/content/prompt

 具体例として以下のフォトグラファーの方のブログのような例がたくさんあります。

9 Prompts & Poses for Guys

 個別の事例についてはまた別途記事にすることにして、今日わたくしが大事だなと思ったのは、これが「ポーズ指示」ではなく「ポーズ促し」的な言葉のニュアンスであること。ポーズ指示という言葉を直訳で英語にするのだとしたら、pose directionになるんではないかと思います。実際にそういう言葉でポージングを指示する際には~とやっている教材もあります。が、私としてはプロンプトの方を採りたいといいますか、既にやっている人物撮りの際のコミュニケーションの取り方が完全にプロンプト型なんですよね。

促す VS かっちり指示

 ポーズ指示という言葉をディレクションと訳した場合、ディレクションというのは仕事として「何をどういう風に」というのを写真撮影すべてにおいて写真家が監督として指示するニュアンスになってきます。つまり参加している他のスタッフたちが監督以下という形で垂直統合されるイメージなんですね。逆にいうと写真作家というのはそういう存在で、だからアーティストとして尊敬されるわけです。

 ですから写真のジャンルによっては、写真家のイメージの通りにすべてをガチガチに決めていくというのも大いに結構、下手するとそうあるべきなのですが、私個人としてはそこにドキュメンタリー性がないと写真の意味がないじゃん、と思うタイプなので、ディレクションという考え方は持ち込みません。

 モデルさんであろうが素人さんであろうが、人物を撮っていてよく思うことは、こちらがどれだけ詳細に指示を出したとしても、受け取る側の感性や実際の動きでポーズは決まってしまいますから、「ポーズ指示」つったところで言葉がでかすぎるんじゃないの? と思うんですね。あと2cm右手を上に! みたいな指示をするのだとすれば話は別ですが、そういうことを写真ですることに意味も意義も感じないんですよ。絵を描けば良くねえか、ってなっちゃうんです。

 人物写真はフォトセッションというくらいですから、同じメンバーと毎日毎日顔を突き合わせて同じポーズを鍛錬していくわけではなく、一期一会でその日、その時に会って撮って写真にする、パッと散る感じが面白く、そこに華があり、それはスタジオであっても屋外であっても、また人物であっても風景であってもスナップであっても同じだと考えています。

 ですから、スタジオで人物を撮る際にも、モデルさんがいかに自発的に動いてくれるかがポイントで、そのためにはポーズをガチガチに指示するのではなく、モデルさんのこれまでの思考と努力と習慣の積み重ねから出てきた動きを一部切り取って写真に収めることが私にとっての「あるべき」姿なんですね。

 となると、ポーズ指示というのは「前後に動くとピントが外れるから勘弁」みたいな安全側の要請としてモデルさんに投げるものの延長であり、互いが互いの持っているものを持ち寄るセッションという呼称、そのパワーバランスに基づいて「こういう方向だと写真として良いと思うのでやってみて」というニュアンスのプロンプト側がしっくり来ます。

猫にポージング指示など必要ない!

誰の作品か

 ですから、写真を撮った以上、その写真は私の作品だ、ということになりますが、写っている人が入れ替わったらその写真は「私の作品」として成立しない可能性が出てくるので、私はモデルさんの持つ肖像権について、かなり擁護といいますか、判例主義でいくのならかなり制限されたものになる可能性が高いところを、「いや写真の権利は半々で持ちましょう」という感覚でいます。だってモデルさんが自発的に動いてくれないとその写真にはならなかったわけですから。

 これがガチガチ指示タイプの写真作家だった場合は、モデルが入れ替わっても別に関係ないよね、といえるだけの強度をモデル以外の部分に持っているはずですから、そうなるとモデルの肖像権について頓着しなくなるのかもしれません。気持ちとしては「俺が全て完璧になるように指示をしているのだから、モデルは器でしかない」という考え方なのでしょうし、それはそれで間違っていませんから、あとはやっていること、作っているものの出来との対照で評価されるだけじゃないでしょうか。

作為の問題

 最終的にこれは、モデル撮影に限らず、撮る側の作為がどれくらい写真の中に働くかだと思います。

 シャッターを切るタイミングや、もちろん絞りやSSなんかの部分に作為はムンムンに発揮されているわけですが、それを鑑賞者に対してどれくらい伝えるのか、伝わっちゃう形で写真の形にするのか、というバランスが、撮影者一人ひとりに問われるんだろうなと思います。

 皆さんもそれぞれ好きな写真家の写真を見て、その作為がどれくらい伝わるようにディレクションしているのかしないのか、検討してみると面白いと思います。かんたんにいえば、モデルが写っている写真に対して、撮影者がどれくらいの厳密さで指示をしたのかしなかったのか、考えてみると面白いですよ。

 それでは!

どうも管理人です! プロフィールが新しくなりました。項目ざくざくご入力くださいね~
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