珍しいもんを撮りたい病気

 こんにちは。今日は開放測光、絞り込み測光の話を書こうと思っていたのですが、Twitterで「Leicaで撮る能登半島地震」と称して被災しながら写真を撮り、タイムラインに流している人が、炎上というほどではないんですが気持ち悪がられているのを見て感じるところがあり、筆を取る次第であります。

撮るべき

 もし自分が被災したとしても、その時点で生命に危機が迫りまくっている状態でなければ撮ると思います。それこそガンガン撮ると思いますよ。前提として、撮るか撮らないか、撮るべきかべからざるべきかでいえば「撮るべき」と思います。

 写真は記録です。三島由紀夫は「言葉はすべてを終わらせてしまう」と対談集で述べておりまして、三島やばいなと思いましたが、写真はそれ以上に終わらせてしまう機能が強いんではないかと思います。だって言語を超えてそのままズバリを見せちゃう、少なくとも見た人は現物に準ずるものが目の前に提示されたと思っちゃいますからね。

 公的な資料としても後に必要とされることがあるでしょう。ただなぜ被災地を撮るのか、動機をバラバラにしていくと、いくつか「わあ気持ち悪い」と思われても仕方がないものがあり、それぞれをきちんと捉えていくことが大事だと思います。

珍しいから

 自分が住み慣れた街が震災で壊れてしまった、というのは、あえてサイコパス的に分析すると端的に珍しいわけで、撮った写真で有名になりたいだのという功利の気持ちを抜きにしても純粋に撮りたくなるものだろうと思いますし、作品としてどうこうを抜きにしても記録として「珍しいこと」は重要です。本当にありきたりのものを撮っても何の記録にもならないでしょう。

 この「珍しさ」、「珍しいものを撮りたい」という強烈な動機は、まず第一に記録であり、むしろ記録から抜け出そうと懸命にもがいても脱出できない写真の強烈な特性から来るものです。絵画でものすごく珍しい何かを描いたところで、「そりゃ想像100パーでも描けるもんね」と言われて別に珍しがられませんからね。

 珍しい→記録したい! と思うのは写真を撮る人間からすると当たり前で、それが不謹慎と言われるかどうかは撮るかどうかよりも撮る時の振る舞いや、撮った写真の使い方によるところが大きいのではないかと思います。ですから撮るか撮らないかでいえば、撮るべきと思います。

 撮らないで生活者としての自分を優先するのも自由ですが、少なくとも私の考え方として、撮る自由を行使するのを妨げるものではありません。

目立ちたいから

 撮ること自体は当たり前と思いますが、今回のライカの方が「うわあ」と言われているのは、当人が『「Leicaで撮った◯◯」は、今流行り?のフレーズで拡散しやすいと考えた』と書いちゃっているように、目立ちたい気持ちが漏れてしまっており、そのために被災を利用しちゃったのが見ている人に伝わってしまったことが大きいようです。私も正直そこが「ウッ気持ち悪い」となりました。

 同じように被災地にわざわざ行って写真や動画を撮り、年に一回コンペティションをやって報道写真賞をやっていたりするジャーナリストの写真なんて、珍しいから、目立ちたいからに加え「儲かるから」なんていう下品な理由も加わってきますが、しかし写真嫌悪が進む日本であっても「まあええか」と容赦されているのは、社会としてその記録に価値があるとみなされること、プロがやっているからある程度の信頼をされて容赦されているものなんじゃないでしょうか。

 諸外国では記録をする人の地位がもっともっと高く、自分たちが存在していること、存在したことを残してくれる人としてチヤホヤしてもらえますが、その存在意義がほぼ理解されない日本ですら、報道は大目に見られます。それは公益があると見なされるからです。

 Leicaで撮ったどうこう、というのは、趣味性が強く感じられ、社会の利益に逆行する私的なものに被災地を利用しているのではないか、という感情を巻き起こしても仕方がないと感じます。実際は趣味でやることが社会にも有益な場合もありますが、扱った題材が被災なので、当事者も被災者であっても気持ち悪いと思う人がわたしを含め多かったのでしょう。

カメラオタクならでは

 今回、当事者を全面的に擁護する側に回っているのはなかなかのカメラオタクだけです。

 ほとんどの人は「撮るのはええがライカがどうこうはちょっと」という客観的なポジションであり、撮ること自体を責める声はほとんどありません。倒壊した自宅を勝手に撮られて嫌な人もいるんではないかという人もいますが、それは社会的には「すまんが堪忍してくれ」で収めてもらう範囲のものです。そこに配慮しすぎると何も撮れませんから。

 ライカの人に対して撮ること自体を責める声がほとんどなく、ライカがどうこうを付けて流すことに嫌悪感を抱く人が多数で、その中でもカメラオタクだけは擁護するというのは示唆的で、ズブズブのカメラオタクになればなるほど自分の振る舞いが他者から見てどう感じられるかであるとか、社会にとってどうか、公益があるのかという視点がなくなっていく傾向が強いのかなあ、と、ここは想像なのですが感じるところです。

 写真は盗聴と同じで、撮るだけなら誰に何を言われても、よほどスカートを履いた人の足元にカメラを突っ込んだりするのでもなければ咎められることはなく、問題はほとんどがその使い方によるもの。

 今回のケースも、撮って流した人がもうちょっと社会的な人であれば、後になって記録しておいてくれてありがとう、ということになったと思います。被災地の写真は廃墟や廃村と違い、これから復興していく起点としてのポジティブな側面もあります。ただそれは復興を果たした後に「この状態からよくぞ」というべきものであって、私自身正直なところ、Twitterやなんかで被災地の写真がプロアマ取り混ぜてガンガン流れてきておりますが、見ても「すげー」という感想以外にありません。

 すでに亡くなった方は数十人、今も倒壊した家屋の中に取り残された人があり、生命があったとしても生活の全てが根底から覆された心境は察するに余りありますし避難所での暮らしも苦しいものであることは容易に想像できますが、こちらはこちらであまり共感しすぎると日常が送れなくなりますから、一定のところで他人事としてシャットアウトする必要があるからです。

まとめ

 写真を撮ること自体は記録として公益に資することも多々ありますが、使い方や振る舞いを間違うとえらいことになるので気をつけましょう!

 それではまた。 

どうも管理人です! プロフィールが新しくなりました。項目ざくざくご入力くださいね~
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