被災地の情報は必要なのか? 一体どう必要なのか?

 こんにちは。今日は月曜日なのですが、気になっていることを秘密ブログの形にしようと思います。

 2024年元旦に起こった能登半島地震、これはマグニチュードで7.6だそうでして、熊本の地震よりも大きかったんですね。この地震が起きてからこっち、能登半島の先端ほど被害が大きく、かつそこへ繋がる道がもともと少ない上に今回の地震で寸断されており、現地の自治体はじめ各所から本当に必要な車両、人員以外は被災地入りしないでくれという声明が出されています。

 被災地を目指して災害に対処するプロの皆さん以外の人が行くと、それだけで渋滞が起きたり、その人達が怪我したり車がスタックしたりした際にも助けないわけにはいきませんからそこでリソースが割かれ、本当に被災している地域に人手や物資が届かず、人命が失われてしまう事態が予想されます。

 これは今回の地震の被災地が特殊ということもいえるでしょうが、同時に特殊な土地だからこそ、平野部の被災地でも起きていたことがより明瞭に可視化されたということもいえるのだろうと思います。

 渋滞を作り出した原因はボランティアの人も含まれており、気持ちは素晴らしいんだけど今じゃないだろと私も思いますし、売名行為で行っている頭がおかしいのも結構な数いるようです。そんな中、報道も危急の事態に必要なんだろうか、と疑問に思うところがあるんです。

報道の役割

 震災報道の役割はたしかにいくつかあり、たとえば後に資料として使えるものになったりする側面もあるのですが、報道各社はべつに資料として使うことを第一の目的として撮っているわけではないでしょう。基本的に営利団体がニュースバリューのあるものを即時情報化して売るためにやっています。今日はそれ自体の良し悪しについては判断するつもりがないのですが、いったん「後で利用価値がある」というのは二次的なもの、副産物なのでいったん度外視しちゃいましょう。

 報道が悲惨な状態の町や人を平和な地域の人々に見せること、その役割を考えた時、極端にいえば2つの反応が予想されると思います。一つは「大変だ!」と被災した人の気持ちに自分を重ね、心配、同情すること。もう一つは「知らんがな」と被災地から離れ、自分のリアルな生活とは切り離されているので無視する姿勢です。

 これはどちらが正しいとも間違っているともいえず、ほとんどの人はその両極の間のどこかでバランスを取っているものと思いますが、現代の日本では例えば外国で戦争が起きた時にどう反応するべきか、だとか、国内だけど遠い場所で災害が起きた時に気持ちの上でどう受け止めるべきか、正解といえる反応がなく困っている人もいるだろうなと思います。

 あまりに他人事では冷たいですし、またあまりに気持ちがぴったり寄り添いすぎても通常の社会生活が営めなくなって辛いですよね。事故や事件の被害者でない傍観者ポジションの人がPTSDになってしまうようなケースもままありますが、それを本当の被害者が望むか、喜ぶかといえば「ちょっとどうだろう」と思います。感じやすい繊細な人がすなわち社会に有益かといえば、そうと限ったものでもありません。

 報道の人たちは情報をもって被害者を作り出したいわけではないでしょう。ではなぜわざわざ悲惨な情報を流すのかといえば、欧米のジャーナリストなんかの場合、商売、自分がハラハラして面白いから、というような下世話で表に出してはいけない部分を隠し、「安穏と暮らしている人間に現実を叩きつけて目を覚まさせるため」みたいなことを言ったりします。

 たしかに後の研究のために淡々と記録をするのであれば、皮膚科のお医者さんが患部を撮るように、本当に淡々と写真を撮って集めるでしょう。ところが報道の場合、いかにハートに刺さる絵を撮るかを重視します。報道写真賞も「アッ」と言わせた美しい写真に賞を与えますし、実際そういうキャッチーな写真があるほど新聞や雑誌は売れるでしょう。誰にも知られずにひどい目に遭っている人を世に知らしめるという点で素晴らしい報道もたくさんありますが、天災の報道については派手さが優先されている、されざるを得ない側面が強いように思います。

 すべての報道写真がそうとはいいませんが、報道写真も商売と名誉が絡んでいる以上、そこには商業写真的な「売らんかな」要素が潜んでいます。

圧縮マン

 コロナ禍1年目だったかに話題になった圧縮マンというのがありました。

 朝日新聞の福留さんという方が、人もまばらな商店街や品川のコンコースを超望遠で圧縮した写真が各社から「こんなに人流が戻っている」という文脈で使われたのに対し、同じ報道カメラマンとして「そういう演出もあって良い」と擁護した話なのですが、私は福留さんが報道カメラマンとして逸脱していると感じます。

 報道が演出を認めてはならないのは、「何か起きた」「それを情報化した」「平和に暮らしている人が見た」そこまでであれば、また口に出して言いはしないし何なら報道の使命、みたいな実際にはよく分からないお題目を掲げてOKにしてきたのがこれまでの風潮だと思うのですが、圧縮マンが問題になったのは、その「人流が戻った」を見て影響を受け、じゃあ俺も私も街に繰り出そう、という軽率な人を増やすための演出になっとるじゃないか、という部分についてです。

 まあ報道が経済活動であることは悪いことではないでしょうし、その経済活動の一環として記録が残り、後の世や遠く離れた世界の人に「そうかこんな人達がいたんだな、こんな大変な災害があったんだな」と知られることもあり、そのついでに現世利益をある程度追求させてやってもええかな、と思われている、という見方をすれば、演出が一定を超えるとそれは後に残しても撮影者や演出を指示した人の「作品」になってしまい、記録として意味がないものになってしまうのでNGなんじゃないでしょうか。

 経済活動と記録の両輪、上手く回れば良いのですが、報道で流す情報が平時の人たちの「役に立っているか」を完全に逆の立場から見てみると、実はこれ政府や自治体の広報でも間に合っちゃうんじゃないの? と思うんですね。

役に立たつ?

 私が思いつく限り、報道が流してくる情報、特に写真が短期的に役に立つのは、平時の民にショックを与えて募金の額を増やす以外にないんじゃないかなあ、と思います。

 実際、報道カメラマンは可能な限りショッキングな写真を撮ろうとします。そのほうがあの世界ではお金と名誉になるからです。しかしそれが本当に社会にとって役に立つものなのかといえば、ちょっと分かりません。きれいな表現をするのであれば、概ねリアルタイムで被害に遭っている人のことを慮るための、想像力を増強するツールとして写真を利用するような使い方、これ以外にないんじゃないでしょうか? もちろんそれ自体凄いことなのですが、じゃあそのために自衛隊や何かに混じって渋滞を作りながら、下手をすると現地の貴重なガソリンや水、食料やトイレなんかのリソースを食いつぶしながらやるべきことなのかというと、「そうでもないんじゃないかなあ」と思うんですね。真面目な話、報道のために現地の被災者が死んでいる可能性は高いわけで、リアル被災者を殺してまでやることか? と、特にタイミングについて思います。そういう点では迷惑YouTuberとさして変わりがなくなってしまいます。

 先述のとおり、むしろ自治体の広報部門にその役割をしてもらったほうが良い、といいますか、報道機関から災害報道の機能をひっぺがしてやった方が無駄が減り、社会全体のためになるんではないかと思います。少なくとも無駄な被災死は減るでしょう。

 もちろんそこには報道の自由、ひいては民主主義のベースがどこにあるのかというより大きな問題になってしまうので、民主主義をやる限りは、内情がどうあれプロの報道人をシャットアウトするというのは不可能です。

 実際の被災地運用でも、わけのわからんYouTuberを一般人としてブロックしても、テレビ局やなんかは検問を通さざるを得ないといいますか、今回「一般の車両は止める」と宣言したこと自体、戒厳令がない日本ではだいぶ思い切ったことをしたなと思ったものですが、被災した人の人命を最優先にするのであれば、救助に直接役に立つ人、モノ以外は極力減らした方が良いのは間違いありません。

振り返るため

 最終的に報道は、場所や時間が離れた人たちに対して「こういうことがあったんだよ」と記録して伝えるためにある、というのがいちおう建前と思います。

 たとえば司馬遷のおかげで古代中国の様子が分かったりと、記録が残っていること自体は素晴らしいのですが、そこに商業的な要素が入ってしまうと資料としての価値はどんどん下がってしまいます。商業=売るための演出ですからね。売ることが悪いわけでもなく演出が悪いわけでもなく、やって良い場所といけない場所があるだけなのですが、功利に走ると真っ先に蔑ろにされるのがそういった良識の部分です。

 土門拳の絶対非演出スナップみたいなことを言っても撮る人間の作為はバリバリに入るのが写真を撮れば撮るほど分かってしまいますし、さらに商業写真を撮る人間は報道写真に対しても「そこは写真としての演出を超えて商業としての演出だろうよ」というのを敏感に嗅ぎ取ってしまうところがあり、報道に関しては報道であることを利用して振る舞いながら中身が利己的にならないよう求めることは社会全体にとって重要だろうと思います。

 戦後日本は各自がまあまあ利己的に振る舞っても、トータルで勝手に社会がじわじわ良くなっていた部分があり、それはシステム設計をした人が上手く時勢と当時の日本人の人柄に合わせてやってくれたおかげと思いますが、その効力はどんどん切れてきていますし、世界情勢も勝手に変わって行ってどんどん不穏になってきています。

 報道から流れてくる情報についても、これまではただ受け取るだけでしたが、SNSを通じて報道の欺瞞に微力ながらツッコミを入れられる状況になっており、社会全体で社会全体のことを考えましょう、という機運が高まっているのは確かだろうと思います。であればこそ、その判断や行動のベースになる情報がいかにして生み出されているかについて考えることは、健康に暮らすために食べるものを気にするのと一緒じゃないかなあ、と思います。

 虎の穴の皆さんも、手に持っているカメラで情報を作り出すことができます。

 「そこにある」「ただ写る」それも写真の一面であり事実なのですが、それが人間に向けた情報であることもまたまごうことなき事実です。あまり考えすぎるのも良くないですが、自分が撮った写真をネガティブなことに使うにせよポジティブなことに使うにせよ、その力の意外な大きさを自覚しておくことは大事です。忘れないようにしましょう。

 それではまた。

どうも管理人です! プロフィールが新しくなりました。項目ざくざくご入力くださいね~
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