芸術とカルマの話

 今日の秘密ブログはふわっとしたエッセイ的な内容です。

 西洋絵画は古いものほど宗教画が多く、そのほとんどが教会から画家への発注により描かれていたのは皆さんご存知と思います。

 しかしその注文主である教会、特に日本にもやってきていたイエズス会やなんかは、時に奴隷貿易の主体として、また南米では軍隊の先駆けとして人を狩ったり連れ去ったり虐殺に加担したりしており、日本人奴隷が海外に連れて行かれたたくさん記録が残っていたり、南米では戦をしかけられ、疫病をばら撒かれて絶滅した国がたくさんあります。

 なぜ宣教師がそんなことをしていたかといえば、あらゆる権益を教会に集中させ、そのことで彼らが信じる神の威光を世界中に知らしめるためだったわけで、そうやって生み出された富により画家へ発注が行き、今日も残っている素晴らしい宗教画の数々が描かれていると考えると、なんとも複雑な気持ちになります。いわば絵に業を感じるんですよね。

 白人世界では自分の祖先の悪行狼藉を、価値観が変わった後で知ってしまった時、原爆を落としたアメリカ人のように「あのおかげで彼らにも良いことがあったのだ」と、無理やりひねり出した功で罪を塗りつぶそうとするか、逆に罪の重さに耐えきれず、過去を断罪しはじめるかどちらか極端に走る人がけっこういるようですが、ほとんどの賢い人はあえてそこには触れず、しかし罪の存在を無視するわけでもなく、功も罪も合わせて受け入れるのだろうと思います。

 私としては、たとえばバロック期のカラヴァッジョは歴史に登場した時点でどうやら人を殺して逃げてきたのではないか、と言われており、名を馳せ、教皇たちから絵画の注文を受けるようになった後もそこらじゅうで喧嘩三昧し、結局人を殺して逃亡生活に入り、逃げながらそれでも描きまくり、最後は野垂れ死にという壮絶な人生を送っており、その来歴を知った上で作品を観ると、これが人殺しの描いた絵か……という気持ちになってしまうのは否めません。

 では現代に生きる我々がそういった過去をどう捉えるべきかといえば、少なくとも私の考えとしては、カラヴァッジョをいま断罪してもしょうがないわけで、それはそれとして捉えるしかないだろうなと思います。逆にカラヴァッジョが品行方正だったとして、それが作品の素晴らしさを押し上げるかといえばそんなことはないでしょう。

 これは原爆を落としたアメリカに対する好感度がなぜか著しく高い日本人だからこそ思うことなのかもしれず、万国に普遍の価値観だとは思いませんが、功罪を別にして考えないと、人権が近世に入っても認められていなかった有色人種の我々が西洋絵画なんて見ていられませんからね。

 ひいては、人間というのは純粋に作品だけを見るのがなかなか難しい生き物で、だから現代アートではコンテクストが異常なほど重視されるわけですが、その作家や作品が歴史の中で背負った業まで含めて楽しむのが、大人としては正しい形なのかなあ、という風に思います。

 美術の世界をチラチラ見ていますと、アーティストだから聖人! みたいに神格化してしまったりする神秘主義的なファンもたくさんいるのですが、大人って他の人やものに憧れを抱きにくい反面、人間は良くも悪くも人間でしかないことを長い人生の中で思い知っているわけで、天才とはいえ一人の生身の人間が、時代の流れに翻弄されながらなんとか一つ一つの作品を残していったのだ、それが今自分の目の前に実存としてあるのだ、という時に、胸糞悪い部分はあれど、その人生や社会的な背景ごと受け止めないと、それはただの消費物扱いなんですよね。

 作品という言葉には狭義で使った場合、そういう重みが生まれちゃうよね、と思いますし、その違いは業なのかなと思います。

業が写っているか

 写真は基本的にそこにあるものしか写らないわけで、画家のように無茶なデフォルメはし辛く、超絶技巧の写実絵画よりも簡単に現実を2次元化することができます。

 だからこそ逆に、撮る人間の業が写りにくいのかもしれないな、と思います。写真って便利だけど重みに欠けるんですよね。

 技術的に正しく振る舞えば振る舞うほど、撮影される写真は端正に、淀みがなく清明になっていくわけですが、きれいな写真であればあるほど、工務店が毎年作っている、どこだか分からないがシュッとしてきれいな風景のカレンダーみたいになっていきます。

 我々日本人はそもそも壁に何かを飾る習慣がないので、たとえばゴヤが食堂に「我が子を食らうサトゥルヌス」を飾っていた感性、すなわちただ気持ちが良いだけの消費物的なものではない、業の深そうな作品を飾って日常的に眺める感性が理解しにくいのですが、作品として好まれるものに業の要素はほぼ確実といって良いほど含まれており、それは時に性的な欲望の形を採ったり、形や色への異常な執着の形を採ったりして見るものに訴えかけます。というか業が訴えかけるものこそが作品なのだろうなと思います。

 ゴッホの過酷な人生が作品をより良く見せてしまう側面と、ゴッホがその過酷な人生を送らざるを得なかった業が絵の具と一緒に塗り込められていることは誰にも分かつことは出来ず、時にそれは誤解でしかありませんが、少なくとも作る側としてはそれくらいの気合で塗り込めていかないと作品がただの消費物で終わってしまうのだろうな、と思います。

でも技術が大事

 虎の穴では技術一辺倒でやっているわけですが、その技術はどこに向かうためにも必要な通行手形のようなものと考えています。

 人によっては家族の記録をより正確に残すために必要とするかもしれませんし、人によっては撮影商売で食っていくために必要かもしれません。写真の原理は何をしようがカメラを使ってする以上、かなりの部分で共通ですから、今後も虎の穴では写真技術を扱っていくことに変わりはありません。

何を撮るにも一旦カメラを介さないと撮れません。

 その上で、皆さんが何をやりたいかはそれぞれに選択すれば良いことです。業の写る写真を探求するのも一つの道でしょう。とりあえずカメラを使って二次元化しまくるだけでも写真って楽しいですからね。気負わずに行きましょう。

 というわけでまた。

どうも管理人です! プロフィールが新しくなりました。項目ざくざくご入力くださいね~
投稿を作成しました 2152

コメントを残す

関連投稿

検索語を上に入力し、 Enter キーを押して検索します。キャンセルするには ESC を押してください。

トップに戻る