写真は証拠か? 観念か?

 こんばんは。今日はプールに行っておりました。

 週末の徳島修行合宿、そういえば台風が当たるかもしれないですね。すっかり忘れておりました。

 tenki.jpによれば、一番近い台風が16日ごろから沖縄に接近ということなので、まあ大丈夫かなあという感じですが行く末を注視いたしましょう。週間予報では徳島県鳴門市のあたりの16日の天気は曇りから雨、翌17日は曇りから晴れみたいな予報らしいので、晴れて欲しいといえば晴れてほしいですが、まあ台風よりはマシですねという感じです。

さて

 最近パーソナルトレーナーをやってくれているお友達と今日もプールに行っておりまして、トレーナー氏はデザイン学校出身なので写真を使う側からの意見が聞けて面白いんであります。

 私が「写真にとっての抽象性の話がなかなか人に伝わらない」とぼやいておりますと、トレーナー氏はちょっと不思議そうな顔をしておりまして、なんだろうと思ったら写真にそもそも抽象性を求めていない、とのこと。

 この場合の抽象性は、自分が見ているモノや景色から特徴的なものを取り出すという意味の純粋抽象というよりは、観念的という方の意味合いだったようなのですが、何はともあれある種の衝撃がありました。

 そうかあ、写真って証拠であって観念を伝えるものではないと思われちゃうんだよな、という感じ。

 原点といえば原点なんですよね、私も写真を始めたというか初めてのカメラを買ったきっかけは、「アメリカで見た珍しい景色を記録しておきたい」でしたから。ちなみに初めてのカメラはニコンのレンズ部分がくるっと回転するコンデジでした。当時はニコンもキヤノンもどうでも良かったなあ。

多分これだなあ。懐かしい。

 それが、撮り狂っているうちに、だんだんと観念的なものを求めるようになってきます。

写真と観念

 写真にとっての観念といえば、一番身近なところでいえば、ただ何も考えずにシャッターボタンを押して「写っちゃった」の先にある、技術により「私はこう思うんですよね」というのを伝えられる部分じゃないでしょうか。

 写真を撮る人同士であれば、例えば「なるほどガツンと絞りを開けて後ろを省略したかったんだなあ、それだけ手前の被写体を思い切り目立たせたいんだなあ」みたいなことが読み取れたりしますし、そういうことが積み重なって写真のメッセージとして見る人に伝わったりします。

 むしろ伝わってくれないと真面目に撮っているこちらとしては困るといいますか、普通の人は写真を撮る一連の動作を、まるでCDプレーヤーの再生ボタンを押すように、押せば毎回同じ音楽がきれいに再生されるようなものだと思ってしまいがちです。さすがにスマホで写真を撮ったことがある人がたくさんいる現代、そこまで単純だと考える人は少ないと思いますが、スマホなら画面タップで自動的に撮影してくれるところを、わざわざ細分化して撮影作業にしている理由はなかなか伝わらないでしょうね。

 その理由こそが、「あれこれ自分でやると、それぞれのパラメーターの決定に自分の意図を反映させることができるから」であり、その部分からして観念を伝える装置ということができるんじゃないでしょうか。

忘れちゃう

 ただ、写真は撮る人間だけのものではなく、見る人もセットで成立するものですし、見る人も色んな特性や好みがあります。そこをすぐ忘れてしまうんですが、忘れちゃいけません。

 撮られる人にしても、たとえば人物写真の被写体をやっている女性、色んな方と最近よくやり取りしているのですが、「どういう写真が好きか」「どう撮ってもらいたいか」がバラバラなんですよね。

 プロのモデルではない、被写体さんみたいな人たちは、自分の顔の情報量が下げてある写真の方を喜ぶ傾向があり、たとえば顔に髪がかかっていたり、そっぽを向いていたりして属人性を下げてあるものが好まれたりします。あれは実に日本人らしいなと思いますが、抽象的な写真にするには写真の場合、属人性含め情報をぐいぐい減らしていった方が良いらしいので、そういった観点からも合致するところです。

 ところが、人によっては顔がガツンと写っていないとその人をモデルにする意味がないじゃない、私がモデルなら私の顔をガツンと撮りなさいよという人もいます。

 もちろんただ写すだけではなく、良い角度、良い瞬間を撮れというのは誰しも一緒なのですが、属人性が高いからこそ意味があるんだ、という人もいるんですね。

 その場合、属人性が高いと必然的に情報量も多くなる場合が多く、「どこかの誰か」「誰かよくわかんないんだけど人間」みたいな感じから、「誰それさん」と特定の人の写真だな、と認識されるからこそ意味があるというのです。

属猫性。ネコチャン写真は私にとって、ほぼ記録ですねえ。

 下手をすると、顔をガツンと写さず、でも誰かは分かる写真にして自分をモデルとして有名にしてほしいなんていう人もいるくらいですから世の中は複雑です。まあ顔を晒すのが恐い気持ちは分からんでもありません。

 いわゆるアー写(アーティスト写真)みたいなものでも、顔をしっかり見せないものがどんどん増えている時代ですから、我々おじさんもそのあたり動向を理解しておいたほうが、自分がやるかどうかは別として良いんではないかなと思います。

 私自身は、大量に写真を撮ってきた結果、別に顔をガツガツ撮るのが目的じゃないもんなあ、顔コレクションがやりたいわけではないなあ、と思う気持ちと、属人性を現代の若者よりは高めに保持しておかないと存在の記録にならんぞ、それで良いのかという相反する気持ちが両方あります。とりあえず顔がしっかり写っていると証拠度が高く、顔が隠れているほど観念寄り、と、今日の話の流れて無理やりまとめるとなりそうです。

 皆さんも人を撮る際、その人を撮るのか、その人に何かを象徴してもらって撮るのか、どちらにするかバランスを意識しながら撮ると面白いと思います。たとえば自分の両親を撮る際に、「俺の親」とがっちり個人として撮るのか、それとも「日本のお父さん、お母さん」みたいな像として撮るのか。

 それではまた。

どうも管理人です! プロフィールが新しくなりました。項目ざくざくご入力くださいね~
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